Text by : 八幡浩司(24x7 RECORDS)

 「PANCHO a.k.a. BIG EAR P」ー。「BIG EAR P」を名乗り、アーティストとして活動を始める以前からPANCHOのことは知っていた。最初は大阪のレゲエ専門レコード店、ロッカーズ・アイランドのジャマイカ駐在員として知ったと思う。初めて会ったのはPANCHOがジャマイカから帰国した後だった。それをきっかけに現在まで連絡を取り合う関係を続けさせてもらっている。だが、実際にはPANCHOのことは詳しくは知らない。新曲「似たもの同士」のリリースを知って、インタヴューをさせてもらうことにした。


ROCKERS ISLAND ー。

PANCHO a.k.a. BIG EAR P(以下PB)「高校を出てからデザイン系の専門学校に通ったんですけど、ちょうど卒業後の就職先を考えないといけなかった時期に『このまま就職したらマズいぞ』っていうパターンに入ったんです。なんか、このまま日本の社会の流れに乗って就職して大人になっていくのはヤバいぞ、みたいな精神状態になって、『もっと自由に生きられるはずやぞ』と思ったんですよね。もともと古着とかが好きだった影響でTHE SPECIALSとかの〈2TONE〉のスカ、そこからそのルーツのジャマイカのスカがコンピCDに混ざってて少しだけ聴いたりしていたんですけど、ちょうどその頃にブラック系が自分の中に入って来て、SEAN PAULやEMINEMとかが流行ってたり、RYOさん(RYO the SKYWALKER)の「Free」を友達がカラオケで歌ってたり、それでレゲエと出会って、レゲエに自由を感じたんですよね、『レゲエってこんなに自由なんだ』って惹かれていってたんです。その話をしていた友達が勝手にロッカーズ・アイランドに連絡をしたら、その時に偶然アルバイト募集しようとしてたらしくて、それでアルバイトで勤めることになったんです」。


●それまでにロッカーズ・アイランドにはよく通っていたんですか?

PB「いや、二、三回ぐらいしかなかったです。買うのもレコードではなくてCDでした。もともとCDとかもそんなに買うタイプでもなくて、友達から借りたりするぐらいでしたし。でも、僕は『やる』ってなったら『やる』ってなっちゃうようなタイプなんです。レゲエのことをやるってなったらそのど真ん中でやる、ロッカーズ・アイランドなら有名やし、ええやろ、って思ったんです。でも、ロッカーズ・アイランドに入ったら、そのコテコテの大阪のレゲエの世界に居る自分に違和感を感じていたんです。自分がそこのスタッフや客みたいにレゲエにハマってなくて、このまま店に居ても俺どうなんやろ?、って思っちゃったんです。でも、それも自分がレゲエを知らないからそうなるんだろうと思って、もっとレゲエを知ろうと思って、自分でお金を貯めてジャマイカに行ってみようと思ったんです。『ジャマイカの音楽、ジャマイカの音楽』ってみんな言うけど、自分がジャマイカを知らないからハマってないんだろうと思ったんですよね」。


●そもそもレゲエ・ファンとかではなかった?

PB「どハマりしてるわけではなかったです。だからバイトでお金を作ってジャマイカに行くことにするんですけど、その自分のバイトのシフトがエグいことになっているのをタッカーさん(ロッカーズ・アイランド社長)が気付いて、その理由を聞かれた時に話したら『ロッカーズ・アイランドで行ってみる?』って言われて、それでジャマイカの駐在員になることになったんです。ロッカーズ・アイランドでバイトして一年後ぐらい、21歳の時です」。


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JAMAICA ー。

PB「ジャマイカでは現地のジャマイカ人のスタッフが買い付けたレコードを店に送る作業を一緒にやったり、店で使用する視聴用の音源を録音をしたりしてました。レコードから配信の時代に変わるようになると各プロデューサーに音源のライセンスの契約書にサインをしてもらったり、ロッカーズ・アイランドのレーベル用にレコーディングに少し携わったり、あと、当時にロッカーズ・アイランドが運営していたレゲエ情報サイトの『ロッカーズ・チャンネル』のコンテンツ用のアーティストのインタヴューとか撮影は結構やってました。ただ、ジャマイカに行ってすぐぐらいに『来る所を間違えてもうた、やってもうた・・』って思ったんです」。


●ジャマイカが合わなかったということですか?

PB「いや、言葉や生活習慣、文化の違いみたいなものは住んでいくうちに慣れていくんですけど、なんか『ちゃうな(違うな)』ってなって・・。結局、就職の時もある意味日本の社会から『ちゃうな』と逃げて、それでロッカーズ・アイランドに入ったんですけど、そこの大阪のレゲエの世界も『ちゃうな』と逃げて、それでジャマイカに行ったんですけど、そこでも『ちゃうな』って・・」。


●何が「ちゃうな」だったんですか?

PB「簡単に言えば、『僕の音楽じゃない』って思ったんです。そうですね、ジャマイカと言うよりもレゲエに対してですね。ジャマイカに行って、『レゲエはジャマイカ人がジャマイカ人のために歌っているジャマイカの音楽』という印象を持ったんです、そこにジャマイカ人ではない自分の居場所は無いと言うか、その自分のモノではないレゲエを自分が使っていることに対して違和感を持ったんです。ジャマイカのアーティストってよく『ジャマイカ!! ジャマイカ!!』って言うじゃないですか? 彼らがそうやって自分の国や人達を盛り上げるような感覚には惹かれたんですけど、そこに自分は含まれてはいないんですよね。そういう意味で『ちゃうな』って。それで一年で帰ろうとも思いましたけど、自分から行かせてくれと言った手前、三年ぐらいはやるしかないというような感じでした、『石の上にも三年』じゃないですけど、その当時は三年で日本に帰ってレゲエもやめようって思ってました。でも、そう思いながらも『ジャマイカに居る自分が格好良い』と思ったりしてましたし、それを自分のプロモーションみたいに使っていたりもしましたけど、やっぱりそれも『借り物』と言うか、そのジャマイカやジャマイカの人のモノを使っている自分に対して違和感を持ってました」。


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GACHAPAN ー。

PB「当時にサウンドとしても活動していたんですよ。ええ、毎週バイクに乗ってプレーしに行ってました。そうしているとプレーすると受ける曲もわかるようになってきて、『この曲流したらボスるんやろうな』ってプレーするとその通りにボスったりすることもあったんです。それはそれで面白かったりもしたんですけど、そうプレーしながら『この曲のヤバさを俺はどれだけわかっているんだろう?』っていつも自問自答してました。あと、その曲もヤバさの理解しないままにボスする状況を見て『これって俺の力じゃなくねぇ?』って思えたりもして、これを一生続けて行くというのは僕の性格には合ってなくて、もう全部辞めて帰ろうと思っていたんです。で、ちょうどその頃にGACHAと出会ったんです。そうです、GACHAとはジャマイカで出会いました。それで二人で音源制作を始めて、レーベルとしてGACHAPANを始めていくことになりました。そうです、GACHAとPANCHOなので『GACHAPAN』でした」。


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●二人の役割分担はどうなっていたんですか?

PB「GACHAがリディムを制作して、自分がそれを歌うアーティストと交渉したりしてました。ロッカーズ・アイランドの仕事で色々なプロデューサー達に会いにスタジオに通っていたので、そこに居るアーティスト達とも顔馴染みになったり知られるようにはなっていました。あと、アーティストのダブ録りをまとめていたりもしたので、その流れで楽曲の録音を依頼したりもしてました。そんなに金とか持って無かったので、ダブ代をまとめて支払うことでタダで録ってもらったりもしてました。そうやってGACHAの作ったリディムを聴いてもらって、アーティストに歌ってもらってから、自分もアイディアを出して仕上げていくって感じでした。それで曲が出来て、リリースして、次第にジャマイカのラジオとかでも自分達の作った曲が流れたりするようになるとずっとあった違和感が薄れたりもするようになりました、『歌はジャマイカ人やけど、リディムや曲を作ったのは自分達だぞ』『半分は自分達のモノや』と思えることで少し変わっていったと言うか、でも、違和感が全く無くなったわけではなかったです」。


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●ジャマイカ在住の日本人二人組のレーベルは画期的でしたし、GACHAPANはジャマイカのレゲエ・シーンの中でも立ち位置を確立しつつあったと思います。

PB「最初はまだまだでしたけど、続けて行く中で良くなっていきましたし、自分達が録りたいアーティストとも曲を作れるようになっていたり、日本でヒットした曲も作れるようになっていたと思います。あと、ジャマイカだけではなくMAJOR LAZERとも仕事する機会があったり、日本人のアーティスト達からも曲の制作の依頼を受けるようにもなっていきました。でも、やはり僕個人の中の違和感は拭えないと言うか、結局最初の頃と同じですけど『ちゃうな』なんですよね。仮にこのまま続けて、もっと成功していって、それこそグラミー賞とか獲得できるようになってもきっとそれは変わらないだろうな、って。半分は自分達(日本人)のモノであっても、変わらずに『借り物』と言うか、グラミー賞を獲得したとしても自分はそれを喜べるだろうか、って・・。それで帰国することにしたんです。29歳の時、だからジャマイカは8年間でした。GACHAPANとしては5~6年ぐらいですかね。


●GACHAPANとしての一番の思い出は何になりますか?

PB「MAVADO『Only Gyal』ですね。その曲を制作出来たことになると思います。MAVADOって自分にとってはスターに駆け上がる時をリアル・タイムでジャマイカで見ていたアーティストで、自分にとっては特別な存在で、そのMAVADOと曲を一緒に作れたことは特別でした。それが実現出来たこともあったと思います、日本に帰ることを決めたのも。帰国を決めた時期に、その当時に大半のジャマイカの楽曲の配信を行なっていたディスリビューション会社の21Hapilousが主催したアワードでGACHAPANとして最優秀新人プロデューサー賞みたいな賞を貰ったのも気持ちの中で踏ん切りがついたところではありました」。 


後編 : TURTLE MAN’s CLUB ~ PANCHO a.k.a. BIG EAR P




PANCHO a.k.a. BIG EAR P

DISCOGRAPHY & INFORMATION


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TODAY
SINGLE - 2019


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BEP
EP - 2019


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嗚呼、俺らは釣りに行く
SINGLE - 2022


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STAY STRONG Feat. MARTIN KINOO
SINGLE - 2023


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あたらしい一日
SINGLE - 2023


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extend
SINGLE - 2023


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似たもの同士
SINGLE - 2024



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